大宮アルパインクラブ

ロッコツ、ぶつぶつ
第15夜 少年老い易く、岳登りがたし
(2009/03/02)
夏の終わりに、光岳に行った。
光岳も「てかり」と読むのだそうだが、これも読みにくい名前の易老渡(いろうど)から易老岳を経由して登った。昔聞いたような名前だと思っていたが、漢文で習った少年老い易くの易老だと思い出した。

原文はこうである。

少年易老学難成
一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢
階前梧葉已秋声
少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢
階前の梧葉(ごよう)已(すで)に秋声

若い頃に勉強しないとすぐに年を取ってしまうよという意味で、朱子学を作った朱子の作とされる。儒教の一派だが、忠君思想が強く徳川幕府や戦前の日本の思想にも大きく影響した。

と思っていたのだが、最近の研究では朱子の作ではなく、室町の頃の日本の禅僧の作らしい。明治になって漢文の教科書に朱子の作として掲載されたので、ほとんどの日本人はそうだと思い込んできたとウィキペディアに載っている。この詩の前半部分はストイックで、時代で言えば明治期から戦前にかけてや敗戦直後の日本、年齢で言えば中・高校生の精神状況に合ったのであろうか、人口に膾炙している。多くの人の覚えているのもこの前半部分だけではないだろうか。後半部分は、朱子の厳しいイメージとは異なる。学舎から外を眺める老いぼれた教師の心境を詠んだごとくである。前半と後半をつなげると、少年にもっと勉強しろと小言を言っている厳しい教師の詠んだ歌ではなく、少年の頃に勉強しておけば今頃一流の学者になれたかも知れないのに、いつまでも若い気でいたらいつの間にか老いてしまったなあ!という老人の嘆きの歌になる。朱子の作というより、禅僧が作ったというほうがぴったりする。

ひるがえってわが身はどうか。
百名山などいつでも行けると沢登りや初歩の岩登りに熱中していたら、いつの間にか体が思うように動かなくなり、百名山も危なくなってきている。この禅僧と違って、いつまでも若いつもりではないのだが、若い人について行くのは毎年大変になっている。
しかしそれは当然のことで、高谷池ヒュッテのホームページを見ていたら、笹ヶ峰登山道入り口から、火打山に登り、ヒュッテに着く標準所要時間は、30歳までで4時間45分、40歳までで5時間35分、50歳までで6時間35分、50歳以上は8時間10分とある。60歳を超えるとそもそも所要時間などない。
人老い易く、岳登りがたしである。

いつもご登場いただくヤマユリさんはどうかというと、年は私と余り変わらないのだが、雪山に、スキーにと冬も元気である。今年はまた海外遠征を考えているらしい。ひょっとしたら漢文の授業をとらなかったのではないかと思うくらい、易老からは程遠く、池塘春草の夢 の中におられるのである。
Because it is there.
(2008/02/16)
第14夜話 Because it is there.

エベレスト(チョモランマ)に最初に登頂したエドモンド・ヒラリー卿が1月11日に亡くなり、国葬が行われたとの記事が新聞に載っていた。どこの国葬かと言うと、イギリスではなくニュージーランドの国葬である。卿と言うからイギリス人かと思っていたが、ヒラリー卿はニュージーランド人で、エベレスト登頂の功績により、ナイトに任ぜられていたと言うことである。もっともオーストラリアやニュージーランドは英連邦、コモンウェールズの一つで、国旗も半分はイギリスであるし、女王陛下の任命する総督が駐在するくらいであるから、イギリスもニュージーランドも本人たちにはそれほど違わないのかも知れない。ところで首相と総督とどちらが偉いかと言えば、もちろん総督に決まっている(と思う)。

エベレストで思い出すのは、初登頂の栄誉に輝くヒラリーやテムジンももちろんであるが、悲劇の登山家ジョージ・マロリーである。マロリーは、1921年のイギリス最初のエベレスト遠征隊に参加し、1922年の第2次遠征隊、1924年の第3次遠征隊のメンバーである。1924年の遠征では、アーヴィンと共にチベット側から頂上に向かい、1999年に遺体が発見されるまで行方不明となっていた。彼らが登頂を果たし、その後遭難したのではないかと言う見方も根強く残っていたらしい。当時の装備は、サングラスに冬用ジャンバーにゲートルと言う軽装備であったらしい。普通の人では冬の富士山も無理とウイキペディアには書いてある。

その後イギリスは、1933年に第4次遠征隊を送り、第2次大戦をはさんで1951年に第5次遠征隊を送った後、1953年の第6次遠征隊で登頂に成功する。この成功の背景の一つには装備の画期的な向上もあろう。平和主義者には残念なことかもしれないが、戦争は科学技術を画期的に進歩させる。通信は司令官と前線をつなぐために開発・改良され、コンピュータは、弾道計算や暗号解読のために開発された。また、最近の例では、インターネットはペンタゴンの武器部品調達網として開発されたことが有名である。山登りに直接関係する衣類や金属の高品質素材、酸素ボンベなどの器具の開発・改良も軍事・戦争と切り離せない。閑話休題。

なぜ私のような山の本を読まない者がマロリーの名前を知っているかと言えば、「なぜ山に登るか」と問われて、「そこに山があるからだ」と奇妙な答えをした人だからである。昔聞いた話では、質問は「なぜエベレストに登るのか」であったらしい。であれば、「そこにエベレストがあるからだ」と言うのはおかしな答えではない。そこで、当時の新聞記事が日本山岳会にあるというので、そのコピーを送っていただいた。

記事は、1923年つまり第2次と3次の遠征の間の3月18日付けのニューヨークタイムズのもので、「なぜエベレストに登りたかったのか」という記者の質問に対して、マロリーは「Because it is there.」と答えている。次いで記者は「でも遠征は科学的な価値のある多くの発見をもたらしたのでしょう?」とたずねる。マロリーは、確かに地質学上や植物学上の多くの成果があったが、地質学者はエベレストの頂上の石がほしいと言っていると答えたあとで、でもそれは2次的なことで、エベレストは世界一高い山で、まだ誰も頂上に到達していない。その存在自体が挑戦であるし、なぜ登りたいかといえば、宇宙を征服したいと言う男の本能の一つだと語る。

探検は大航海時代の領土上の野心と言った政治的側面から、動・植物学、地質学、考古学、人類学上の発見と言った科学的側面が強調されるようになっていた。しかし、誰も達成したことがないことへの挑戦という側面があることをこのインタビューは生々しく語る。つまり冒険としての探検、登山の誕生である。

このところ毎年海外に遠征するヤマユリさんに、例会の後の飲み会で聞いてみた。「ヤマユリさんはなぜ山に登るの?」。すると、意外な答えが返ってきた。「達成感かしら」。それじゃマロリーと同じ! しかし続けて、アンデスの話かキリマンジャロかよく聞き取れなかったが、ポーター達が、トランプをしていてそれに入れてもらったら、誰々(ポーターの名前)が、何といって、それに対して私はこう答えて・・・と、いつものヤマユリさんに戻った。結局、話がしたくて、海外遠征しているのかと納得した。

(第14夜話終わり)
雨ニモ負ケズ・・
(2007/05/14)
雨ニモ負ケズ、風ニモ負マケズ、雪ニモ夏ノ暑サニモ負ケヌ、サウイウ者ニ私ハナリタイ

山登りには、適している人といない人がいるようだ。私などはどちらかと言えば、適していないのではないかと思っている。一つには体力がないことである。わが会のなかで最も体力がなく、歩くのが遅いと自認している。頂上近くになると、さらにペースが遅くなる。山頂に着くと、ほかのメンバーが帰り支度を始めていることもある。

第二には、頑張ろうとする気力が希薄である。特に初めてでない山は、諦めが早い。会の山行は、ピストンで行くことが多いので、疲れると先に下ってしまうこともある。性格もあるのであろうが、痛い経験をしたトラウマのせいでもある。乗鞍岳に山スキーに行ったときは、1回目は天気が悪く馬の背で引き返したが、2回目は好天に恵まれ、無理して山頂まで行った。山スキーをやる人はご存知のように、体力を消耗すると転ぶ、転ぶと体力を消耗するという悪循環に入ってしまい、スノーシュー組と同じに帰還した。下りの体力を温存する必要を痛感したことがある。

第三は、運動神経の無さ、不器用であることである。パッパッと手早くやることができない。ザイルの処理などでは、もたもたしてしまうし、アイゼンをオーバー手袋をつけながら付けるなども無理である。自分ではそれほど不器用だと思っていなかったのだが、出発準備が大体最後になることから最近では痛感している。

第四は、これらの欠点を補うべく努力することが苦手である。体力づくりにはトレーニングが欠かせない。ジョギングや筋力運動は山登りをやる人には必須であろう。スクワットを毎日七百回欠かさないと言う会員もいた。オーバー手袋をしながら、アイゼンを付ける練習を続ければ、そのうちできるようになる気もする。ザイル裁きも結局は慣れであろう。実は、トレーニングをしない訳ではない。しかし無理をすると体のどこかが壊れてしまうことが何回もあって、適当にやっているのだ。

これらの問題は、結局加齢によるものだと思う人もいるであろう。しかし、私と大して年が違わない、いつもこのコラムに登場を願うヤマユリさんはどうかと言えば、ますます元気に山に登っている。昨年も今年も、春合宿で山に登った後、残って八方尾根でスキーをしている。キリマンジャロもアンデスも一人でバンバン行ってしまう。バンバンかどうかは、同行した会員がいないので、本当は分からないのだがバンバンに違いない。その元気さの秘訣の一つはトレーニングにあるらしく、山から帰ってジムが開いていれば、2キロは泳ぐらしい。愛犬のパジルがまだ寝ていなければ、荒川の土手の斜面を登ったり降りたりしながらジョギングをするらしい。

結局は年相応にしかできない人と、完璧でないにせよ若さを保つことができる人がいるということであろうか。それが運命というものであろうかと、宮沢賢治ばりに、やりたいこととやれることのギャップを嘆くのである。と考えたところで、ヤマユリさんにも弱点があって、重い荷物が苦手なことに気づいた。海外登山では荷物運びを雇うことができる。この間も、若い人にボッカ訓練と言い含めて、荷物を持ってもらっていたなと思い出した。とすれば、五番目に山登りに必要なことは、人を説得する力、人徳ということであろうか。これも私には無くて、悩みは深くなるばかりである。



赤信号 みんなで渡れば 大量遭難
(2007/01/28)
山の経験がそれほどあるわけではないのだが、見たり聞いたりしたことからすると、遭難の原因は3つほどに分けられそうだ。第1は、アクシデントともいうべきもので、落石・岩崩れや雪崩などがそれにあたる。一昨年の白馬岳の岩崩れや、昨年の硫黄岳の雪崩などはその例だろう。もちろん雪崩の巣と呼ばれるようなところでの遭難や、雪崩が起きやすい気象条件のときの遭難はアクシデントとばかりでは片付けられないであろうが。

第2は、人災とでもいうか、本人の不注意によるものである。睡眠不足などの体調が悪いときの事故や、自分の力量から明らかに無理な山行での遭難はこれにあたる。松本清張の「遭難」は、殺したい相手を睡眠不足にして、鹿島槍で事故死させると言う筋だった。また「山と渓谷」には、体調不良、睡眠不足のまま後立山に行き、不帰の嶮で居眠りをして滑落した人の体験談が載っていた。

第3は、天候の急変などに対する判断ミスによるものである。昨年の阿弥陀岳の遭難や、白馬岳の山スキーでの遭難がこれにあたるであろう。と言っても話は受け売りで、埼玉県岳連の主催した雪山講習会で聞いた話である。阿弥陀岳のケースは、南稜を登って来たが、稜線上は猛烈な吹雪で動けなくなったものである。普通の状態であれば、1時間もあれば行者小屋に着くが、それはそのままま下ることができれば、の話である。ここは無理せずに引き返し、もと来た南稜を下ればよかったとは講師の方の話である。講師の方によれば、100m上がれば気温は0.6度下がり、風はますます強くなる、下ればその逆で、森林に入ってしまえば遭難にはならない。撤退、後退が最善であることが多いとのことである。

もと来た道を戻るのが最善であることは、下界の生活にもいえることである。自分立てた企画を実行し、経費をかなり使ったところで、どうにも先が見えなくなった経験がある。うまく行けば100点だが、これ以上経費と人を使ってうまく行かなければ、マイナス100点である。戻ることは自分の経歴に汚点がつくのでマイナス50点である。私の場合はやめることにした。それまで毎晩よく眠れなかったのだが、ぐっすり眠れるようになった。

格好は悪いが失敗を認めたほうがよい。雪印やパロマや不二家のトラブルを見ているとますますその感が強くなる。でももとに戻らない人が多い。あるいはことが多い。もとに戻ることは、そのまま進むことよりもより大きな精神面でのエネルギーを必要とするからなのだろうか。

ところで、いつも登場を願うヤマユリさんはどうかと言えば、1昨年に奥穂高から西穂高への縦走路でつかんだ石が崩壊し指を負傷した以外は、キリマンジャロでもアンデスでも無遭難である。この負傷は、第1のアクシデントと思うが、motoさんに言わせれば、崩壊しそうな岩は掴むものではなく、押してバランスをとるべきらしい。とすれば、これは第2の人災になるのだろうか。
百名山 金尽き 力の果てるまで
(2006/09/04)
百名山の続きである。この会に入るまでは、一人で山に行くことが多かった。家人が心配するので、旅行社のツアーに参加したこともある。百名山だけを目指そうとするなら、ツアーは手軽で安全である。手軽の意味は、自分であれこれ考え、手配する手間が省けるからである。安全という意味は一人で行くのに比べればリスクは小さくなるということである。もちろん山のことであるから、ツアーでも、黒部の下の廊下の事故のように滑落のリスクはあるし、4年前の幌尻岳のように、豪雨で全員が遭難し、自衛隊のヘリで救出されるというようなことも起こりうる。ちなみになぜ道警でなく自衛隊かといえば、遭難ではなく、台風による災害救助と言う名目であったからである。

ツアーに参加したときにバスで隣り合わせた男性は、山形の人で、百名山を目指しているが、ツアーに参加するために夜行バスで山形から来たとのこと。下山後東京に一泊し別の百名山ツアーに参加する予定と言っていた。地方にいて百名山を目指すのには、ツアーの利用は欠かせないのかもしれない。

当然、ツアーであるからお金がかかる。以前大宮アルパインクラブの有志で北海道の利尻岳、トムラウシ旭岳、後方羊蹄山に行ったのだが、フェリー、テント利用だったので一人あたり飲み代も入れて4万円ですんだ。旅行社のツアーで行けば、これらをいっぺんに回るツアーは無いのだが、4山合計で32万円かかる。百名山合計でいくらかかるのか、旅行者のパンフレットの企画を合計してみた。夏のせいか、筑波山の企画が無いが、仮に7500円の日帰りとすると、百名山合計で317万円かかる。日数は夜行も1日と数えると201日である。ちなみに最も高額のツアーは、幌尻岳で13万円、宮之浦岳の12万5000円がこれに続く。

金とヒマと体力があれば百名山は可能とよく言われる。別に百名山にかぎることでもなく、この世のいろいろなことはそうで、金とヒマと体力・気力があればほとんどのことが可能である。しかし、われわれ凡人にとって、この世の中のほとんどのことが不可能であるという現実は、実はこの3つが同時に成立する可能性のない、あるいは少ないトリレンマであることを意味する。その典型が百名山であろう。若いころは、金が無いから北海道や九州の山に行くのは大変である。働き盛りでは、ヒマがない。定年後、金とヒマができてから、百名山を登り始めても体力的に相当大変である。握力も弱くなっているから、剱岳のタテバイ、ヨコバイでは最後の鎖が握れないかもしれない。だから体力のあるうちに、お金を貯め、時間を作って、リスクの少ないツアーに参加しようということになる。

だが待てよ、と考える。なぜ山に登るかといえば、冒険・ロマンだからだろう。いつも人に連れて行ってもらっていては、冒険の満足度は落ちるだろう。バリエーション・ルートで登るほうが、達成感はあるだろう。大丈夫だろうか、無事に帰れるであろうかという不安のない冒険はない。マルコ・ポーロやコロンブスとヒラリーやウィンパーの気持ちは同じであろう。はるかに小さいスケールながら、一人であるいは数人の仲間だけで、岩稜を前にすれば私も同じ気持ちになる。とすれば、安全であろうと参加者が思うが故にツアー山行はそれだけ満足度、達成感が落ちることになる。無ければ当然であるが、金があっても、ツアーではなく自分たちで企画するのが本当はよいのだろう。

さて、いつもこのコラムに登場するヤマユリさんはと言えば、昨年のキリマンジャロに次いで、今年はペルーアンデスのトレッキングに行くらしい。金とヒマと体力が並外れているのである。いつか私並みの金とヒマと体力になって百名山にも付き合って欲しいものである。

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